マインド(意識)、積極思考、笑い、感謝、成功の本質

ネアカのあなた、全てが約束されてます

ネアカ、何時も楽しそうに生活している人。居ますよね。

こういう人は楽天的で、何事が起ころうとケセラセラ。くよくよ考えません。

何か頼まれても、喜んでやってくれます。不平不満がほとんど湧かないのです。

こういう人からは良いオーラが出まくってますので、異性にもてもて、運すらひきよせます。

ネアカを目指しましょう。


目立ちたがり屋のあなた、全てがうまくいく

目立ちたがり屋、は日本人に少ないキャラではないでしょうか? 自信のない人は目立ちたくない人が多く、引っ込み思案の、魅力が薄いひとなのです。

集合写真を撮るときなど、後ろの方に行かないで、なるべく列の中央近くに陣取ってください。

しかし、単なるでしゃばり、おちょこちょいの目立ちたがり屋では寂しい。目立ったついでに人の嫌がる事を率先して引き受けるようにするなら、運も味方して、あなたのやることなすこと、成功する確率は限りなく高くなります。

理由なき自信をもて

いわれなき自信、とは、別に確たる勝算もないのに何故か「何でも出来るような気がする」というマインドを持つ人が居ます。

勝てる根拠、やれる根拠があれば誰でも自信がもてます。しかし確たる根拠が無いのに、やれない気がしない」というのがこのマインドの持ち主。

あなたは「やれない理由」を見つける天才ではないでしょうね? 上司から何か頼まれたとき、話がまだ終わってない段階で、もうやれない理由をみつけて、上手に依頼をお断りしてしまいます。

これでは、誰も助けてくれません。返事はまず、はいやります。と言ってください。本当に無理なら、後刻やれない理由をはっきり述べて即断を詫びればよいのです。

「いわれなき自信をもつ」世渡り上手なあなたであってください。

 成功への本質

*成功への本質*

長い人生。本当にいろんな事に遭遇します。

なかでも大切なのは、人との接し方でしょう。いろいろな人と接するとき、簡単な成功法則があれば楽ですよね。

思想家の「斎藤一人」氏がYoutubeで教えてくれています。

{一生困らない凄い力です。〇〇の二文字が心からいえるようになれば・・・。

幸運の片道切符

感謝感謝再感謝


 【いのちをいただく】

坂本さんは、食肉加工センターに勤めています。牛を殺して、お肉にする仕事です。坂本さんはこの仕事がずっといやでした。牛を殺す人がいなければ、牛の肉はだれも食べられません。だから、大切な仕事だということは分かっています。でも、殺される牛と目が合うたびに、仕事がいやになるのです。「いつかやめよう、いつかやめよう」と思いながら仕事をしていました。坂本さんの子どもは、小学3年生です。しのぶ君という男の子です。ある日、小学校から授業参観のお知らせがありました。これまでは、しのぶ君のお母さんが行っていたのですが、その日は用事があってどうしても行けませんでした。そこで、坂本さんが授業参観に行くことになりました。いよいよ、参観日がやってきました。「しのぶは、ちゃんと手を挙げて発表できるやろうか?」坂本さんは、期待と少しの心配を抱きながら、 小学校の門をくぐりました。授業参観は、社会科の「いろんな仕事」という授業でした。先生が子どもたち一人一人に「お父さん、お母さんの仕事を知っていますか?」「どんな仕事ですか?」と尋ねていました。しのぶ君の番になりました。坂本さんはしのぶ君に、自分の仕事についてあまり話したことがありませんでした。何と答えるのだろうと不安に思っていると、しのぶ君は、小さい声で言いました。「肉屋です。普通の肉屋です」坂本さんは「そうかぁ」とつぶやきました。坂本さんが家で新聞を読んでいると、 しのぶ君が帰ってきました。「お父さんが仕事ばせんと、みんなが肉ば食べれんとやね」何で急にそんなことを言い出すのだろうと坂本さんが不思議に思って聞き返すと、しのぶ君は学校の帰り際に、 担任の先生に呼び止められてこう言われたというのです。「坂本、何でお父さんの仕事ば普通の肉屋て言うたとや?」「ばってん、カッコわるかもん。一回、見たことがあるばってん、血のいっぱいついてからカッコわるかもん...」「坂本、おまえのお父さんが仕事ばせんと、先生も、坂本も、校長先生も、会社の社長さんも肉ば食べれんとぞ。すごか仕事ぞ。」しのぶ君はそこまで一気にしゃべり、最後に、「お父さんの仕事はすごかとやね!」と言いました。その言葉を聞いて、坂本さんはもう少し仕事を続けようかなと思いました。ある日、一日の仕事を終えた坂本さんが事務所で休んでいると、一台のトラックが食肉加工センターの門をくぐってきました。荷台には、明日、殺される予定の牛が積まれていました。坂本さんが 「明日の牛ばいねぇ...」 と思って見ていると、助手席から十歳くらいの女の子が飛び降りてきました。そして、そのままトラックの荷台に上がっていきました。坂本さんは 「危なかねぇ...」 と思って見ていましたが、しばらくたっても降りてこないので、心配になってトラックに近づいてみました。すると、女の子が牛に話しかけている声が聞こえてきました。「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ...」「みいちゃんが肉にならんとお正月が来んて、じいちゃんの言わすけん、みいちゃんば売らんとみんなが暮らせんけん。ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ...」  そう言いながら、一生懸命に牛のお腹をさすっていました。坂本さんは 「見なきゃよかった」 と思いました。トラックの運転席から 女の子のおじいちゃんが降りてきて、坂本さんに頭を下げました。「坂本さん、みいちゃんは、この子と一緒に育ちました。だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。ばってん、みいちゃんば売らんと、この子にお年玉も、クリスマスプレゼントも買ってやれんとです。明日は、どうぞ、よろしくお願いします」坂本さんは、「この仕事はやめよう。もうできん」 と思いました。そして思いついたのが、 明日の仕事を休むことでした。坂本さんは、家に帰り、みいちゃんと女の子のことをしのぶ君に話しました。「お父さんは、みいちゃんを殺すことはできんけん、明日は仕事を休もうと思っとる...」そう言うと、しのぶ君は「ふ~ん...」と言ってしばらく黙った後、 テレビに目を移しました。その夜、 いつものように坂本さんは、しのぶ君と一緒にお風呂に入りました。しのぶ君は坂本さんの背中を流しながら言いました。「お父さん、やっぱりお父さんがしてやった方がよかよ。心の無か人がしたら、牛が苦しむけん。お父さんがしてやんなっせ」坂本さんは黙って聞いていましたが、それでも決心は変わりませんでした。朝、坂本さんは、しのぶ君が小学校に出かけるのを待っていました。「行ってくるけん!」元気な声と扉を開ける音がしました。その直後、玄関がまた開いて「お父さん、今日は行かなんよ!わかった?」としのぶ君が叫んでいます。坂本さんは思わず、「おう、わかった」と答えてしまいました。その声を聞くとしのぶ君は「行ってきまーす!」と走って学校に向かいました。「あ~あ、子どもと約束したけん、行かなねぇ」とお母さん。坂本さんは、渋い顔をしながら、仕事へと出かけました。会社に着いても気が重くてしかたがありませんでした。少し早く着いたのでみいちゃんをそっと見に行きました。牛舎に入ると、みいちゃんは、他の牛がするように角を下げて、坂本さんを威嚇するような ポーズをとりました。坂本さんは迷いましたが、 そっと手を出すと、最初は威嚇していたみいちゃんも、しだいに坂本さんの手をくんくんと嗅ぐようになりました。坂本さんが、「みいちゃん、ごめんよう。みいちゃんが肉にならんと、みんなが困るけん。ごめんよう...」と言うと、みいちゃんは、坂本さんに首をこすり付けてきました。それから、坂本さんは、女の子がしていたようにお腹をさすりながら、「みいちゃん、じっとしとけよ。動いたら急所をはずすけん、そしたら余計苦しかけん、じっとしとけよ。じっとしとけよ」と言い聞かせました。牛を殺し解体する、その時が来ました。坂本さんが、「じっとしとけよ、みいちゃんじっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは、ちょっとも動きませんでした。その時、みいちゃんの大きな目から 涙がこぼれ落ちてきました。坂本さんは、牛が泣くのを初めて見ました。そして、坂本さんが、 ピストルのような道具を頭に当てると、みいちゃんは崩れるように倒れ、 少しも動くことはありませんでした。普通は、牛が何かを察して頭を振るので、急所から少しずれることがよくあり、 倒れた後に大暴れするそうです。次の日、 おじいちゃんが食肉加工センターにやって来て、坂本さんにしみじみとこう言いました。「坂本さんありがとうございました。昨日、あの肉は少しもらって帰って、 みんなで食べました。孫は泣いて食べませんでしたが、『みいちゃんのおかげでみんなが暮らせるとぞ。食べてやれ。みいちゃんにありがとうと言うて食べてやらな、みいちゃんがかわいそうかろ?食べてやんなっせ。』って言うたら、孫は泣きながら、『みいちゃんいただきます。おいしかぁ、おいしかぁ。』て言うて食べました。ありがとうございました」坂本さんは、もう少しこの仕事を 続けようと思いました。ある学校で、保護者の一人から、「給食費を払っているのに、『いただきます』と子どもに言わせるのはおかしい」というクレームがあった、との話を聞いたことがあります。「なんという常識のない保護者なんだ!」と片付けるのは簡単です。でも、もしもこの保護者が、この話を知っていたとしたら、どうだったでしょう?現在の食生活は、「命をいただく」というイメージからずいぶん遠くなってきています。そしてその結果、 食べ物が粗末に扱われて、日本での一年間の食べ残し食品は、発展途上国での、何と3300万人分の年間食料に相当するといいます。私たちは 奪われた命の意味も考えずに、毎日肉を食べています。動物は、みんな自分の食べ物を自分で獲って生きているのに、人間だけが、自分で直接手を汚すこともなく、坂本さんのような方々の思いも知らないまま、肉を食べています。動物だろうが植物だろうが、どんな生き物であっても、自分の命の限り精いっぱい生き続けたい、そう願って生きているんだと私は思います。命をいただくことに対しての「思い」。お肉を食べて「あ~、美味しい。ありがとう」お野菜を食べて「あ~、美味しい。ありがとう」そこに生まれる思いはどんな思いでしょう?お肉を食べて「うぇ~、マズッ!」お野菜を食べて「うぇ~、マズッ!」そこに生まれる思いはどんな思いでしょう?食べ物をいただくとき、そこに尊い命があったことを忘れずに、その命を敬い、感謝の言葉をかけてあげられる人に育ちましょう。今日もまた、 食べられることへの感謝の言葉、「ありがとうございます。感謝します。いただきます」。食べているときの「美味しい!」という言葉。そして食べ終わった後の、「あ~、美味しかった。ありがとうございます。ご馳走さまでした」という「食べられたこと」への感謝の言葉をかけてあげましょう。もちろん、食べ残しをせずに。食べ物が、あなたの体を作ります。あなたの体に姿を変えて、あなたの中で生き続けます。そして、体の中からあなたを精いっぱい応援してくれています。あなたができる最高の恩返しは、たくさんの生き物たちから命のバトンを託されたあなたの命を、いっぱいに輝かせること。喜びに満ちた人生を過ごすこと。それが、あなたと共に生きているたくさんの命たちが、いちばん喜ぶことなんです。みんなの分まで、命いっぱいに輝きましょう!出典:西日本新聞社「いのちをいただく


いま伝えたい服部剛の感動の日本史講義【第3回】「ポーランド孤児を救助せよ!」

2020年06月03日

【WEB chichi限定記事】

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コロナ禍との闘いで、この4月・5月の我が国は「緊急事態宣言」のもとにありました。現行憲法は「非常事態」を想定していないので、政府は他国並みの「命令」が出せません。したがって「要請」に基づく自粛にとどまらざるを得ませんでしたが、この事態は我が国にとって戦後初めての非常時でした。今回は、日本国民の皆が「非常時」とは何かをよく認識していた大正時代のお話です。過酷な状況におかれたポーランド人に対する日本の対応を紹介しましょう。時空を超える「恩」に感動します。

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ポーランド、苦難の歴史

平成23年の夏休みのこと。岩手県と宮城県の中高生30名がポーランドに招かれ、約1ヶ月滞在しました。「絆の架け橋プログラム」という支援でした。実は、その16年前の平成7年にも日本の小中学生がポーランドに招待されています。前者は東日本大震災、後者は阪神淡路大震災で大きな痛手を受けた子供たちだったのです。

多くの日本人にとって「遠い国」との印象を抱くポーランドの人々が、なぜ日本の子供たちをここまでいたわってくれるのでしょうか。その背景には先人の残した偉大な遺産と日本・ポーランド間の固い絆があったのです。

まず歴史的背景を説明しましょう。東ヨーロッパの伝統的な王国ポーランドは、1795年にロシア・オーストリア・プロイセンによって3分割されて、すべての国土を失いました。独立運動に関わって逮捕された愛国者たちは、家族もろとも流刑地シベリアに続々と送られました。その数は十数万にも上り、彼らは独立の日を夢見て、飢餓や伝染病、凍死の恐怖と闘い続けてきました。かわいそうなことに、この過程で親を失った孤児が数多く生まれていました。苦節なんと130年。1919年(大正8年)、第一次世界大戦終結時のヴェルサイユ条約によって、ようやくポーランドは独立が認められます。虐げられ続けたポーランド人たちは歓喜に湧き立ちました。

ところが、直後の1920年4月、ソ連とポーランドの間で戦争が始まったため、唯一の帰国手段であるシベリア鉄道が止まり、祖国に帰れなくなってしまったのです。この事態に直面し、ポーランド孤児たちを保護していた救済委員会は欧米諸国に救援を要請しました。

「せめて、シベリアに残された孤児だけでも助けてもらえませんか」

この懇願に応え、ポーランド孤児たちに救いの手を差し伸べたのは、どこの国だったでしょうか。日頃、正義や人道を振りかざしていた欧米諸国は、ことごとく拒否してきたのです。飢えと病気に苦しむ孤児たちは、絶体絶命の危機に直面しました。

ポーランド孤児を救出せよ!

そんななか、「よし、手を貸そうじゃないか」と名乗り出た国が一つだけありました。それが日本でした。外交官の武者小路公共(きんとも・武者小路実篤の兄)が素早く対応しました。そして、日本赤十字社とシベリア出兵中の陸軍兵士らが直ちに救出に乗り出しました。その間、なんと要請からわずか17日です。

孤児だったダニレビッチ氏はこう語っています。

「街には飢えた子供があふれていました。その子たちは、日本の兵隊さんを見ると『ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!』とせがむのです。日本の兵隊さんは優しかった。私もキャラメルをもらったことがあります。孤児の中には空腹で雪を食べている子供もいました。シベリアはもう、まったくの地獄でした」

そもそも広大なシベリアで、放浪する孤児を探し出すことがいかに困難なことかは容易に想像がつきます。しかし、日本赤十字と日本軍は「事態は一刻の猶予もない」と、酷寒のシベリアで鮮やかな救出劇を繰り広げました。そして、保護した孤児をウラジオストクまで運び、船で次々と日本に送り出しました。3年間で救済した孤児は765名にも上りました。

孤児の年齢は12歳頃が最も多く、上は16歳で下は2歳の女児でした。皆、痩せこけて血色も悪く、服や靴もぼろぼろでした。収容施設では、衰弱した大量の孤児を看護師が付きっきりで看病しました。手遅れと思われた腸チフスの少女を担当した松沢フミさん(当時23歳)は、「この子には看てくれる父も母もいない。死んでも泣いて悲しんでくれる親はいない。死を待つほかないのなら、せめて自分の胸で死なせてやりたい」と毎晩、少女に添い寝しました。当時、腸チフスは罹ったら死に至る感染症として恐れられていましたが、甲斐あって少女は奇跡的に回復します。しかし、松沢さんはチフスに冒され、亡くなりました。異国の不遇な子供に命を捧げたのです。

ポーランド孤児は、日本国民の大きな同情をよびました。寄付金を申し出る人は引きも切らず、慰問の品を持ち寄る人、無料で歯科治療や理髪を申し出る人、学生の音楽サークルが慰問に訪れ、慈善団体が子供たちを慰安会に招待しました。

見舞いに来た日本人の子供は、孤児たちのあまりにも惨めな服装を見て、やおら自分の着ていた服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボンや櫛、飾り帯、指輪などを取ってポーランド孤児に手渡したりしました。こんなことは一度や二度ではなく、頻繁にあったといいます。

皇后陛下(貞明皇后)も日赤病院の孤児たちを見舞われました。貞明皇后は3歳の女の子を抱き寄せ、「大事になさい。健やかに育つのですよ」とおっしゃりながら、その子の頭を何度も撫でて慈しみました。

当時、孤児だったヘンリク・サドスキさんは「皇后陛下に抱きしめてもらったことが忘れられない」と、母のような貞明皇后の姿が今も鮮やかに目に浮かぶと言っています。

こうして孤児らは健康を取り戻し、回復した子からポーランドに送り届けることになりました。ところが、出航の直前、孤児たちは乗船を嫌がったといいます。どうしてでしょうか。日本に来るまで人に優しくしてもらった経験がなかった孤児たちにとって、親身に世話をしてくれた日本人は、すでに彼らの父となり母となっていたのです。

そして、見送る日本人に対して泣きながら「アリガトウ」を繰り返し、滞在中に習い覚えた「君が代」を斉唱して感謝の気持ちを表したといいます。

また、航海中のことです。日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回りました。一人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて熱が出ていないかどうかを確かめていたのだそうです。ある孤児は、「その時の手の温かさを忘れない」と回想しています。

高尚な国民

では、平成の時代に戻りましょう。駐日ポーランド大使館に勤務していたフィリペック氏は、この壮大なドラマを知って「いつか日本に恩返しをしたい」と願っていました。

平成7年、阪神淡路大震災が発生した際、ポーランド政府は直ちに日本への救援に入ってくれました。そして、日本支援の一環としてフィリペック氏は日本の震災孤児たちを自国に招いて激励してくれたのです。これが冒頭の「絆の架け橋プログラム」の始まりです。

かつてポーランド極東委員会の副会長だったヤクブケヴィッチ氏は、大震災に打ちひしがれる日本人に向けて『われらは日本の恩を忘れない』と題した次のようなメッセージを発しています。

「我が不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。......ポーランド国民もまた高尚な国民であるがゆえに、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に知っていただきたい。ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい」(抜粋)

大正の日本人は何の見返りも求めずに最善を尽くし、孤児を一人も死なせませんでした。知る人ぞ知る大の親日国ポーランドの親愛感情の原点は、この大正時代の名も無き日本人たちの崇高な行為が発端です。一方のポーランド人も、「受けた恩を忘れない」という感謝の想いを持ち続けました。その高尚な想いは、二度の大震災でポーランド国民が示してくれた惜しみない支援事業につながっています。私たちはともに美しい善意の絆で結ばれた「高尚な国民」なのです。

「国民性」というものは各国各様です。震災時に表れた冷静で思いやりのある日本人の態度は日本人の国民性でしょう。また、外国人を魅了する親切とおもてなしの心などもそうでしょう。コロナ禍の中、政府の命令がなくても粛々と自制的な行動を取った日本人が多かったこともそうと言えますね。

このような日本や日本人の素晴らしさを題材にして、日本のことを誉める教材を嫌う教師がたくさんいますが、それはちょっと違うんではないかな、と思います。義務教育の段階で望ましい「国民のあり方」を教えることは、公教育に課せられた使命のひとつではないでしょうか。

大正時代の日本が国を挙げて取り組んだ孤児救出事業から、真の国際交流のあり方と気概のある日本人の姿を学び、心を震わすことは精神の成長にとても大切なことなのではないでしょうか。そうして、青少年が今の自分を振り返って、自分に気品ある優しさはあるだろうか、そんな人になれるだろうかと考えることって大事だと思うのです。

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